2020年度のプロ野球ですが、9月に入っていよいよ終盤に向けて連日熾烈な戦いが繰り広げられています。
プロ野球ファンであれば、まさにこれからが大いに楽しみな時期ではないでしょうか。
果たして今季の優勝チームはどこになるのか、興味は尽きませんね。
そのプロ野球では球団同士で選手のトレードが行われています。
ここからは巨人から西武に移籍をした内海哲也に焦点を当て、現在の置かれている位置やここまでの成績と年俸、西武へ移籍後変わったことなど、最新情報を織り交ぜてお伝えしたいと思います。
まだ暑い日が続きますが、しばらくの間冷たい飲み物などでのどを潤しながら、ぜひご覧ください。
内海哲也の現在、成績と年俸は?

それでは早速ですが内海哲也のプロフィールと経歴をお伝えします。
内海哲也(うつみ てつや)は、1982年(昭和57年)4月29日生まれで38歳です。
京都府城陽市の出身で、身長は186㎝、体重は96kg、現役のプロ野球選手で現在は埼玉西武ライオンズに所属しています。
左投げ左打ちの投手です。
高校は福井県敦賀市にある敦賀気比高等学校に進みました。
左腕のエースとして早くから注目されていました。

1999年(平成11年)、秋季福井大会・北信越大会においては他校を寄せ付けないほど圧倒的な強さで優勝を飾っています。
第30回明治神宮野球大会では内海投手はあまり調子が出ませんでしたが、強力な打線で準優勝を飾ります。
第72回選抜高等学校野球大会で甲子園への出場が決まりましたが、他の部員の不祥事によって敦賀気比高校は、甲子園への出場を辞退しています。
3年になって夏の県大会では決勝で福井県立福井商業高校と戦い、延長10回の熱闘の末惜しくも2対3で敗れてしまい、あと一歩のところで甲子園出場はできませんでした。
きっと悔しかったことと思いますね。
内海哲也ですが、阪神のスカウトから「高校生では打てない」と評された落差の大きいカーブ、恵まれた体格からの角度の付いた最速144km/hのストレートの、緩急自在に投げ分けることで三振を量産しています。
1試合平均14個の三振を奪う所から「北陸のドクターK」との異名をとったほどでした。
個の活躍は当然ながらプロ野球のスカウト陣に注目をされ、2000年(平成12年)のプロ野球ドラフト会議では、巨人、オリックスから1位で指名されました。
指名された直後にオリックスの仰木監督から電話を受けたことで、一時はオリックスに傾きかけました。
しかし高校時代にバッテリーを組んだ李景一が、巨人から8位で指名されたことで巨人への気持ちが強くなりました。
結局すぐにプロ入りをせず、社会人野球の「東京ガス」に進みました。
2003年の第74回都市対抗野球大会で、シダックスの補強選手として出場を果たし、準優勝に貢献しています。
この活躍で同年秋に行われたプロ野球ドラフト会議では、巨人が自由獲得枠で交渉権を得、入団が決まりました。

背番号は祖父が付けていた同じ「26」を受けています。
巨人へ入団後、2004年には2軍で9勝を挙げましたので、イースタンリーグ最優秀防御率を獲得しています。
2005年には林昌範投手らと競い開幕ローテーションを勝ち取りました。
このシーズンは4勝9敗に終わっています。
2006年は中継ぎでスタートしましたが、高橋尚成の代役で先発し、6回を無失点で初勝利を挙げています。
先発に定着、スライダーを習得してからは飛躍的に上昇、初完投、初完封勝利を挙げるなど12勝を挙げる活躍をしています。
2007年は初めて開幕投手を務めました。
横浜スタジアムでの3月30日の横浜ベイスターズ戦です。
その試合で勝利を挙げてからその後も安定した投球により、14勝をマークしました。
防御率も3.02とリーグ3位の好成績で、自身初タイトルの最多奪三振180を獲得しています。
これは実に素晴らしいことだと思います。
2008年は春季キャンプ中にわき腹を痛めてしまいオープン戦の前半を欠場しています。
開幕後はローテーションの軸として活躍し、12勝8敗、防御率は2.73、奪三振は154で共にリーグ3位でシーズンを終えています。
2009年は開幕前の3月にワールド・ベースボール・クラシックの日本代表メンバーに選出され、3月20日の韓国戦に先発しましたが、制球難で頭部直撃で死球を出すなど苦しみ、3回途中1失点で降板しましたが、この大会ではこれが唯一の登板となっています。
シーズンに入ってからは一時不調で二軍に落ちることもありましたが、再昇格後、9月になって調子を取り戻し、1完封勝利を含む4勝0敗で、防御率も1.16の好成績を上げ、9月の月間MVPを受賞しました。
最終的には9勝どまりとなって4年連続二桁勝利はなりませんでした。
巨人はリーグ3連覇を達成、CSのファイナルステージでは、登板の機会はありませんでした。
これは登板予定の試合前に、勝ち抜きが決まったためでした。
日本シリーズは北海道日本ハムファイターズと戦い、内海投手は第2戦に先発、3回裏2死から5連打を浴びてしまい4失点で敗戦投手となってしまいました。
第6戦では先発をした東野峻が、初回2死で高橋信二選手のピッチャーライナーを右手の甲に受けてしまい、負傷退場しました。
内海投手は急遽マウンドに上がり、4回2/3を無失点に抑え勝利投手になり、日本シリーズの優勝に貢献しています。

2010年は巨人軍選手会長に就任しました。(2013年まで)
開幕前には決意表明で名球会参加資格である200勝の達成と、背番号26を永久欠番にすると宣言しました。
3月26日のヤクルト戦では自身二度目の開幕投手を務めましたが、見事に勝利を挙げています。
その後勝ち進み前年の山口鉄也投手以来の開幕5連勝を挙げています。
これも実に素晴らしい記録ですね。
この写真は、その山口鉄也選手の引退セレモニーの時、花束を渡す内海選手ですが、思わず涙をこらえきれずに山口さんへ抱き着く姿です。
内海投手の暖かい心が伝わるいい写真ですね。

結局このシーズンは11勝で2年ぶりの二ケタ勝利となっています。
しかし防御率は4.38となってしまいました。
2011年は5月~6月にかけて7連勝をマークしました。
5月の月間MVP(2回目)と交流戦優秀選手賞を受賞しています。
その後も新たに習得をしたフォークを武器に、安定した投球を見せました。
結局このシーズンでは最終的に18勝を挙げていますが、巨人での15勝は1979年の新浦寿夫投手以来、32年ぶりの左腕投手記録となりましたが、それを上回る記録となりました。
中日の吉見投手と共に、巨人の左腕投手では、1969年の高橋一三以来42年ぶりとなる最多勝を獲得しました。
防御率も自己最高となる1.70でリーグ2位の好成績でした。
2012年は2年ぶりの開幕投手を務めましたが、ヤクルトを相手に6回3失点で降板し敗戦投手となってしまいました。
4月12日の中日戦では史上130人目となる1000奪三振を達成、シーズン初勝利を挙げました。
交流戦では4勝0敗と防御率1.29の好成績を上げ、巨人としてセリーグ初の交流戦優勝を果たしました。
交流戦MVPも獲得しています。
さらに7月16日の阪神戦から10月5日の横浜DeNAベイスターズ戦まで8連勝を記録し、先発陣では一人だけローテーションを守り切っています。
このシーズンは2年連続で最多勝を獲得、これは斎藤雅樹投手(1995年~96年)以来で、左腕投手では史上初の記録だそうです。
セ・リーグ優勝を果たし日本シリーズでは北海道日本ハムファイターズと戦い、第1戦では7回を無失点で抑える活躍、第5戦でも先発8回を2失点で2試合とも勝利を飾りました。
巨人は日本一に輝き、内海選手は日本シリーズのMVPを獲得しました。
2013年は6月16日の福岡ソフトバンクホークス戦で完投勝利を挙げ、プロ通算100勝を挙げました。
8月6日には横浜DeNAベイスターズ戦で通算1500投球回も達成するなど、この年は表彰が多い年となりました。
このシーズンは4年連続二桁勝利の13勝を挙げましたが、最多勝は惜しくも逃してしまい、防御率も3.31という結果に終わっています。
セ・リーグ優勝を果たし、楽天との日本シリーズでは、第1戦と第5戦で先発し、第1戦は6回無失点と好投を見せ勝利投手となりました。
このシリーズは惜しくも3勝4敗で楽天に日本一をさらわれてしまいましたが、内海投手は優秀選手賞を受賞しています。
2014年は9試合勝ち星が付かず5月29日の楽天戦でようやく初白星を挙げました。
このシーズンは7勝9敗と負け越してしまいました。
CSでも阪神に4連敗となってしまいチーム史上初の敗退となりました。
2015年は開幕2軍スタートとなりました。
7月29日にやっと一軍登録されています。
このシーズンは不調に終わり2勝しか挙げることができませんでした。
CSでも好調には程遠く、やっとファイナルステージに上がりましたが、結局負けてしまったため日本シリーズには進出できませんでした。
2016年は全盛期のような球威がなくなってしまいました。
そのため緩急を使いコーナーを丁寧に突く投球術を身につけ、その後は順調に勝ちを続けました。
結局9勝に終わりましたがCSでも横浜DeNAベイスターズ戦で1勝2敗で負けてしまい、敗退してしまいました。
2017年は調子を落としてしまい最終的には2勝7敗に終わっています。
2018年は開幕では二軍スタートとなり、5月10日の阪神戦で一軍初登板、初勝利を挙げました。
結局15試合に登板し、5勝5敗で防御率は4.17に終わっています。
2018年12月20日に国内FAを宣言した埼玉西武ライオンズの炭谷銀仁朗選手を、巨人が獲得したことで人的保証として内海哲也は西武への移籍が発表されました。
2019年は開幕前に左前腕に故障を起こしてしまったため、二軍でのスタートとなりました。
このシーズンは出場しても不振な状態が続き、結局プロに入って以来初めて一軍登板なしに終わってしまいました。
10月24日には左前腕・筋腱修復手術を東京都内で受けました。
2020年は前年に受けた手術のリハビリも兼ねて、キャンプはB班で開幕を二軍で迎えています。

イースタンリーグで6試合に登板、3勝2敗で防御率は5.58でした。
8月22日には待望の一軍に昇格しましたが、オリックス戦では移籍後初登板で2年ぶりの先発となりましたが、アダム・ジョーンズから2打席連続本塁打を浴び、6回4失点で敗戦投手となりました。
尚、この試合で杉本裕太郎から見逃しの三振を奪い、史上56人目の通算1500奪三振を達成してます。
そして9月2日のZOZOマリンスタジアムで行われた、千葉ロッテマリーンズ戦では先発で5回を2安打6奪三振と好投。
6回表にチームが得点し勝利投手の権利を得て、後続の投手も頑張った結果、4対2で勝利を挙げました。
プロ一軍では巨人時代の2018年8月21日の横浜DeNAベイスターズ戦以来、743日ぶりの勝利となりました。

移籍後初勝利でもありました。
「5回しか投げられませんでしたが、これでやっと西武ライオンズの一員になれた気がします。これからもどんどん勝っていきたいと思いますので応援お願いします」と内海投手はうれしそうにマイクに向かって語ってくれました。
これからも内海投手には頑張って勝利を重ねて欲しいと願っています。
西武への移籍で変化したことは何?
今回、約2年以上という久しぶりの勝ち星を挙げた内海投手ですが、巨人から西武に移籍後変化したことといえば、どんなことでしょうか。
悪いながらも要所では決定的なミスを犯さずにすんだわけですが、これは前回の登板(8月22日)のオリックス戦で、ジョーンズ選手に手痛い2発を食らってしまったことではないでしょうか。
辻監督は「球の走りも含めて前回よりも状態が悪い気がしたが、彼の持ち味である打たせて取るピッチングができた」というように、悪い中でもどのように粘り、ゲームを作るかとの見本のような、これぞまさしく「ザ・ピッチング」だった気がします。

今の西武にはきらりと光る才能を持ちながら、シーズンの過半を握る状態の悪い時に我慢ができず、序盤において主導権を手放してしまう課題を抱えるようなエース候補が多いのも事実ですね。
この日の内海投手の内容は、そんな若手先発陣が吸収するべく貴重なヒントが詰まった75球でした。
ストレートの球速はわずか136km/hでしたが、110km/h台のカーブを投げることによって、相手打者のタイミングを前と後ろにずらす。
それは相手のねらいや試合の状況を見ながら、スライダーやツーシーム、さらにはチェンジアップを、ストライクゾーンの上下左右に出し入れをすることで、相手の打ち気を巧みに利用しながら、術中にはめていきました。
主力が抜けて「雨後の筍」のように出てくる野手と比べ、FA、ポスティングの弊害で、これまでエース級が何人も流出してきました。
若い選手たちが成長する、しかるべきタイミングで、つなぐばき伝統、手本となる人がいなかった投手陣にあって、ようやく説得力のあるまさしく講師役となる人材が出てきたと確信できました。
今後ますます内海投手にとって多くの出番がやってきそうな気がしてなりませんね。

ぜひ頑張ってほしいと思っています。
これからも内海哲也を応援していこうではありませんか。
ガンバレ、西武ライオンズ! 頑張れ、内海哲也!若手の良き指導者たれ!
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