達川光男さん、肩が震えた 第101回全国高校野球選手権大会決勝戦で始球式!




昨日行われた第101回全国高校野球選手権大会の決勝戦を前にして、広島商のOBでプロ野球広島カープの捕手として活躍した達川光男さん(64歳)が、始球式をしました。

やや緊張気味に大きく振りかぶった達川さんは、外角高めへ投げ込み、甲子園球場の観客から大きな拍手を受けましたね。

「よく足が震えると言うが、肩が震えた」と語っています。

広島商は甲子園球場で初めて開催された第10回大会(1924年)の優勝校。

達川さん自身は第55回の記念大会(1973年)で優勝したチームに在籍しました。

その時バッテリーを組んだ佃正樹さんは12年前の夏に亡くなったとのことです。

「本来なら、佃が投げるべき始球式。彼ならあんな高めの球は投げなかった」と亡き親友を偲んでいました。

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達川光男の経歴と野球への思いは?

ここからは、その達川光男という人物について、どのような経歴の持ち主で野球に対する思いなど、最新情報を交えながらお伝えしたいと思います。

達川光男(たつかわ みつお)さんは、1955年(昭和30年)年7月13日生まれで64歳です。

広島県広島市の出身で、身長は177cm、体重は74kg、現在はフジテレビやテレビ新広島、ニッポン放送などで解説者の仕事を主にしています。

ここまでの経歴をお伝えしますと、広商時代は1973年(昭和48年)春の選抜に出場しました。

準決勝までコマを進め、当時剛腕で知られた作新学院の江川卓と対戦します。

その試合では小技と待ちをうまく使って江川投手を攻略し、見事に勝利をおさめ決勝に進みました。

しかし上には上に好投手がいるもので、横浜高の永川投手に抑えられて敗戦となり、惜しくも準優勝に終わりました。

その悔しさをばねにして、同じ年の夏の大会では、地方予選で優勝を飾りその余波で甲子園でも決勝まで勝ち進みました。

決勝戦では静岡高校と対戦、植松投手を撃ち下して見事に優勝を飾っています。

捕手にコンバートされたときのエピソードが、ちょっと変わっていたので、ご紹介しましょう。

達川選手が高校1年生の時に当時の正捕手である1年生の選手が、試合前にタコを食べて食中毒を起こしてしまったそうです。

その捕手の代役として達川選手は捕手をしましたが、その時抜群の肩の良さを見ていた監督は驚いて、その場でコンバートを決めたとのことです。

やはりキャッチャーは肩が弱くては、相手に盗塁をさせ放題になることから、監督が即決しましたがこれが大正解だったわけですね。

同じ年の夏の甲子園では元読売巨人軍でも活躍をした、高知商校の鹿取義隆投手から、見事にホームランを放ちました。

本人曰く「高校生時代に唯一のホームランだった」そうです。

しかもこのホームラン後の大会で木製のバットを禁止して、次の大会から金属製バットに替わったことで、木製バット最後のホームランという珍しい記録が残されました。

金属バットしか使用しなくなりましたので、結局この記録は2度と破られないことになりましたね。

これも珍しいですが、素晴らしいことだと思います。

広島商を卒業後、東洋大学に進学しました。

東都大学野球リーグでは1年後輩だった松沼雅之投手とバッテリーを組みました。

そして1976年(昭和51年)秋季リーグに於いて、加盟して以来36年目にして見事に初優勝を成し遂げました。

これもまた素晴らしいことだと思います。

そして1977年(昭和52年)秋に行われたプロ野球ドラフト会議で、広島カープからドラフト4位で指名を受け入団が決まりました。

本人はもしドラフトでの指名がなかったら、本田技研野球部に進むつもりだったと後日に語っています。

1978年(昭和53年)開幕から1軍に上がり、7月には当時の正捕手水沼選手に替わりマスクをかぶりました。

そして6年目の1983年(昭和58年)には見事に開幕時から、正捕手の座を確保しています。

以来広島カープの正捕手の座を守り続け、1991年(平成3年)にはセリーグで優勝し、日本シリーズでも西武を下して見事日本一を獲得しています。

これまた素晴らしいことだと思います。

捕手として大きな活躍をしましたが、打者としては打率は0.280で本塁打も10本を超えることはありませんでしたが、その活躍ぶりは多くのプロ野球ファンの心に残っていると思います。

キャッチャーとしてベストナイン3回受賞、ゴールデングラブ賞も3回受賞しています。

素晴らしいことだと思います。

その後1992年(平成4年)には徐々にスタメンから外れることが多くなり、瀬戸捕手が起用されるようになりました。

シーズン通して100試合に出場していたにもかかわらず、同年の秋にはこの年限りで引退することを発表しました。

突然の発表でしたので監督を始め同僚選手からも驚きの声が上がりました。

10月4日に行われた読売巨人戦での引退試合では最後の打席に立ちました。

バットを乾かして打つとボールがよく飛ぶとのうわさを聞いて、達川選手はバットを十分に乾かして打席に立ちました。

しかしながら、乾かしすぎてしまい、打った時にバットが折れてしまい、最後の打席ではショートゴロに終わりました。

その打席に入るときにはこれで最後かと思うと思わず涙があふれたそうです。

その回の後、守備に就くときには、大野投手と共にリリーフカーに乗って登場し、球場に詰めかけた多くの広島カープファンから大声援が起こったそうです。

これは試合中に捕手でリリーフカーに乗った選手は、後にも先にも達川選手だけであるとのこと。

こんなところにも達川選手の人気の度合いが大きかったことがよくわかるエピソードだと思います。

そして引退試合が終わった後のあいさつでは、タイムリーエラーをした相手の巨人篠塚選手に対して、「特に篠塚会長!その他……」と名指しをし、何か特別なことをいうのかとかたずをのんでいると、「以下同文!」とオチを付け場内を笑いの渦で巻きこんだとのことです。

現役時代から本当に面白いエピソードで話題に欠くことがない選手でしたので、最後まで多くのファンを魅了しました。

広島カープファンで今は亡き筑紫哲也さんは、当時野村克也さんとの共著「功なき者を活かす」という本の中で、「優勝時のメンバーが大きく変わってるわけではないのに、なぜチームが低迷したかというと、達川が引退したからチームがガタガタになってしまった」と述べていたのが印象的でした。

その引退後の活躍ぶりは、各球団で打撃守備コーチなどを歴任し、今まで培ってきた多くの経験を生かして、若い選手の育成に努めてきました。

詳しくは割愛させていただきますが、最後にいかにも達川選手らしいエピソードをここでご紹介したいと思います。

捕手として相手打者の集中力をそぐことを行うため、「ささやき戦術」が取られていることはよく知られるところですね。

有名なところでは、野村克也選手のささやきやボヤキが知られていますが、達川選手も決して負けていませんでした。

野村さんは相手の弱みを突くことでしたが、達川さんは世間話やうそをつくことが主だったようです。

広島弁を使って「今日飲みに行くん?」など全く野球に関係ないことを話題にする。

わざと相手打者に球種やコースを教えたりして、相手打者を欺くことや、相手に聞こえるくらい大きな声を出して投手に配球を支持して、違い球種を投げさせてだますなどです。

まだほかにもいろいろと面白い話があるようです。

これらの話を聞いていると、打者と捕手の掛け合いは丁々発止といった感じで、とても面白く感じますね。

また今度どこかの所で詳しくご紹介したいと思っています。

またどこかのユニフォームを着て、大いに後輩を指導する姿を期待したいと思います。

以上、元広島カープで活躍した達川光男さんのご紹介をしてきました。

いかがでしたでしょうか。

これからも元気よく大きな声で、大好きな野球の話を聞かせて欲しいと強く念願しています。



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