斎藤雅樹の全盛期っていつ頃?どんな活躍をしたの?現在は何をしているの?




年号が平成から令和に替わっておよそ1週間がたちましたが、平成の30年間にはプロ野球界でもいろいろな選手が登場し多くのファンに話題を提供しましたね。

今でも当時のことを懐かしく思い出すことがあります。

ここではその平成時代に活躍をした選手たちを思い出してみたいと思います。

読売ジャイアンツの投手として長い間活躍をし、引退後は読売ジャイアンツの二軍監督や一軍投手コーチなどを歴任して来られた斎藤雅樹さんについて、ここまでの活躍とこれからについてお伝えしたいと思います。

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斎藤雅樹の全盛期っていつ頃?

それでは早速ですが斎藤雅樹さんのことを振り返ってみましょう。

斎藤雅樹さんの経歴について最初にお伝えします。

1965年(昭和40年)2月18日生まれで今年54歳、埼玉県川口市出身、身長181cm、体重90kgの右投右打の投手でした。

生まれたのは東京都足立区で育ったところが埼玉県川口市だったそうです。

小学校5年生の時に地元のリトルリーグに入りました。

特に活躍したのは市立川口高校在学中で、内山清監督の指導を受けてから頭角を現しました。

しかし甲子園にはあと一歩という所で行くことはできなかったとのことです。

甲子園には行けませんでしたがプロ野球のスカウト陣からはその才能を認められ、1982年(昭和52年)のプロ野球ドラフト会議では読売ジャイアンツから1位で指名されました。

契約金は4000万円で年棒は推定で260万円だったそうです。

当時のスカウト担当者ですが、かの有名な伊藤菊雄さんが行ったとのことで、さすがに見る目が違うなと思いました。

当時は投手の素質より守備や打撃にも素質がありましたので、野手に転向することも考えられたそうです。

しかし当時の監督であった藤田元司さんから、サイドスローに変えてみてはどうかとアドバイスを受け、オーバースロー7からサイドスローに変えました。

そのサイドスローへの転向が今思い返すと、吉と出ましたね。

やはりさすがに投手出身監督である藤田さんの見る目が正しかったことを証明しました。

さすがプロの見る目は違うなと感じました。

その後の活躍ぶりは皆さんご存知のことと思いますが、ここで改めて見ていきたいと思いますのでしばらくお付き合いください。

1989年には藤田さんが監督に復帰され、再び指導を受けました。

その前の王監督時代には斎藤雅樹投手は先発には向かないのではないか、と考えられていたそうです。

気が弱いからというのがその理由だったとのことですが、藤田監督は斎藤雅樹投手に対して「気が弱いのではなく気が優しいんだ」と語りました。

「投手というのは臆病でないといけない。怖いということはお前が色々と考えているからである」と本人にまっすぐに話をしたうえで、先発として起用を続けたそうです。

その藤田監督の気持ちを十分にくみ取った斎藤雅樹投手は、それ以来サイドスローでありながら球速140キロを超えるストレートでぐいぐい抑え、さらには鋭いカーブなどで打者を打ち取っていきました。

斎藤雅樹はどんな活躍をしたの?

中でも3試合連続完封勝利を含んで11試合連続完投勝利という、輝かしい記録を打ち立てるほど大活躍をしました。

この記録は当時の日本新記録でありますから、素晴らしいことだと思います。

最近のプロ野球では先発完投型が少なくなっており、分業制が主流ですのでなかなかこの記録は破れないのが現状といえます。

勝利投手の権限である5回終了時点でリードしている場合、中継ぎ投手や抑え投手に替わることが今や常識になってきていますから、それは素晴らしい成績であると思っています。

最多勝利投手賞を西本聖投手と共にタイトルを分け合い、さらに最優秀防御率や沢村賞も獲得することになりました。

おそらくこのころが斎藤雅樹投手にとって全盛期であるといっても間違いありませんね。

翌1990年も8試合連続完投勝利を挙げていますし、20勝を挙げていますから「平成時代の大エース」「球界のエース」「ミスター完投」と3つもの称号を与えられていることは、まさにその名の通りだと思っています。

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斎藤雅樹は現在は何をしているの?

その大活躍ぶりにやや衰えを感じてきた時期は1997年ではなかったでしょうか。

そのシーズンはヤクルトとの開幕戦で小早川毅彦選手に、開幕3連発を浴びました。

その後右腕の故障も起きてしまったためシーズン後は一桁の勝利に終わってしまいました。

翌1998年には10勝を挙げましたが、それが二桁勝利の最後になってしまいました。

そして2001年にはいよいよ終焉の時を迎えました。

故障していたからだが限界に達したことにより、この年の終了時に引退を決意しました。

同僚の槙原投手や村田捕手などと共に現役引退を発表したのです。

この3選手は1994年10月8日に行われた中日ドラゴンズとの同率首位最終決戦で、一緒に戦い優勝を遂げた思い出の選手でした。

当時を振り返ると、優勝した瞬間、長嶋茂雄監督の体全体から湧き出す喜び一杯の笑顔が目に浮かんできます。

長い間の活躍ぶりには本当に頭が下がります。

お疲れさまでしたとの言葉が自然に出てきましたね。

現役引退後ですが、斎藤雅樹さんは2002年から2003年にかけて読売ジャイアンツの一軍投手コーチを務めました。

2004年から2005年にはフジテレビの野球解説者と共に、スポーツ報知新聞の野球評論家として活躍しました。

そして2006年には原辰徳監督のもとで、一軍投手コーチとして復帰しました。

2008年から2009年には二軍投手コーチを務め、2010年から2015年には再度一軍投手コーチを務めています。

2016年から二軍監督として若い選手たちを指導し、見事にイースタンリーグ優勝を成し遂げました。

2017年には再び一軍投手コーチを務めました。

2018年には一軍投手総合コーチに就任し同年終了時に一軍投手総合コーチを退任しました。

そして2019年からは14年ぶりとなるフジテレビの野球解説者として復帰されましたね。

以上、斎藤雅樹さんの現役時代から引退後、さらには現在の状況をお伝えしてきましたが、あなたはどのように感じられたでしょうか。

私は現役時の斎藤雅樹投手が大好きでよくテレビ中継を見ていましたので、とても懐かしく思っています。

あの斎藤雅樹さんの優しい笑顔を見ていると、とても気持ちが安らいでくる気がしました。

投手コーチをされているときも投手交代などの時にピッチャーマウンドへ行って新しい ボールを手渡す際に、交代する投手に対しても「お疲れ様」と声をかけ、ねぎらっている姿や、これから投げる投手にも声をかけて励ます姿が、とてもかっこよくて素敵だと思っていました。

これからはあの優しい笑顔が見られなくなるので寂しい気持ちです。

いつかまた新しい指導者として読売ジャイアンツの監督をされることを期待しています。





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